昭和という時代はゆるかった。
病院だろうが飛行機だろうがタバコはどこでも吸えるわ、街を歩けばポルノ映画のポスターは貼ってあるわ、エロ本の自動販売機はあるわ、オッサンはそこら中でカーッぺッってタンを吐いてるし、車のシートベルトはしなくてもいいし、バイクだってノーヘルOK。学校へ行けばスカートめくりはするわ、体罰は受けるわ、個人情報に対する意識なんてないから、卒業アルバムには住所も電話番号も載っている。家に帰ってテレビをつければおっぱいポロリ。ゴミの選別もないから、どんなゴミでも一緒にポイ。
法律や規制、マナーが強化されて暮らしやすい反面、「あれもダメこれもダメ」で面倒くさい令和時代と、ゆるゆるの昭和時代。どちらがいい時代かは知りませんが、昭和はそういう時代だったのであります。
これからお話するのは、70年代前半、筆者が実際に体験した、
昭和時代でなければあり得ない
恐ろしい実話です!
(霊とかの話ではありません。生と死のリアルな話ですのでご注意)
小学校低学年だった僕は、当時東京の自由が丘というところに住んでいました。今ではオシャレな街の代表みたいなイメージですが、70年代の自由が丘は、オシャレなお店は一部しかなく、そのへんの街と何も変わらないものでした。それこそ冒頭の昭和ゆるゆるエピソード通り。駄菓子屋や空地はもちろん、キャバレーやパチンコ屋、ポルノ映画館や風俗まであったのでした。
自由が丘といえば、東急東横線です。今ではまったくない話ですが、当時はこの東横線がたまに運休していました。労働組合が強く、ストがよく行われていたのです。たぶん年間2~3日は「ストで全休」だったのではないでしょうか。そうなると、昭和の人たちは何をすると思いますか?
・・・線路を歩くのです!
通勤や通学など、理由があって仕方なく歩く人や、「線路を歩けるなんて面白い!」と歩く人(me-too)もいて、線路内はすごい人数でした。ストになると「線路を歩けるー!」と喜んだものです。さすがに鉄道会社的には禁止行為だったはずですが、少なくとも黙認されていたと思います。あれだけ人が歩いているのに、鉄道会社や警察から「スト中、線路に入らないでください。線路から出てください」などと言われた記憶はないですから。
その恐ろしい事件が起きたのも、ストの日でした。
たぶん日曜日で、いつもよりたくさんの人が線路をぞろぞろ歩いていました。小学校低学年の僕も、友達と一緒にルンルン歩いていました。大人も子供も、線路を歩くという非日常を楽しんでいたのです。
僕らは自由が丘駅から横浜方面に歩きました。田園調布駅を過ぎて、多摩川駅(当時は多摩川園前駅)に到着。その先には多摩川が流れていて、
東京都と神奈川県をまたぐ、大きな電車用の陸橋があります。
小さかった僕は、ストで歩いてもこの辺までしか来たことはなかったのですが、一列に並んでズンズン進む行進に釣られて、そのまま陸橋へ進んでしまいました。子供なので、あんな大きな陸橋を渡るのは正直抵抗もありましたが、みんなが一緒だし、引き返したら友達に対してかっこ悪いし。
線路を歩いて、そのまま電車用の陸橋の上へ入ると、とたんに恐怖が襲って来て、僕は後悔しました。でも、もう後へは戻れません。線路を歩く行列は、まるで競歩のようにズンズン進んでいたのです。当たり前ですが、線路の陸橋は人が歩いて渡ることを想定して作られていません。左右に欄干などあるはずもなく、狭い線路を外れたら、そのまま橋から落ちてしまうのです。
後ろを歩いている友達が、ふざけて突っついてきたりして、「てめえやめろ!」とマジ切れしたり。とにかく
手を広げてバランスを取ながら必死で歩きました。
僕の前は自転車を押して歩いている大学生くらいのお兄さんでした。大きな陸橋の真ん中くらいまで来ると、風が強くなり、女の子の悲鳴があちこちで聞こえたり、風で体が持っていかれそうになったり、本当に恐かったです。やっぱり多摩川駅で引き返すべきでした。
あまりにも高い陸橋の上を歩いているので、線路の下を見ないようにしていました。そして綱渡りみたいに広げた手でバランスを取ながら進んで行きます。まわりの大人たちもみんなそうしていました。
線路を少しでも外れたらすべてが終わり。死が身近に、左右すぐそこにあるのです。
前を進むお兄さんは、邪魔な自転車を押しているので、手を広げてバランスを取ることもできず、ゆらゆらしてます。初めはふざけていた、後ろの同級生も半べそをかいています。
そんな、しなくてもいい恐怖体験をみんなでして、もうすぐ、「やっと橋を渡り切る!」という所まで来た時に・・・
事件は起こりました!
突然強風が吹いて、飛ばされそうになり、僕はしゃがみこみました。しかし目の前の自転車のお兄さんはバランスを崩して、
そのまま自転車ごと真っ逆さまに橋から落ちてしまったのです!
多摩川に落ちたわけではなく、橋を渡り切る直前だったので、落ちたのは橋の下の道路。それでも相当な高さからですし、しかもその川沿いの道は、運悪くコンクリートでした。ああなんということ!
もちろん大騒ぎになりました。陸橋を渡り切ったあと、僕も見に行ったのですが、頭から落ちたらしく、顔が血だらけで、まったく動きませんでした。たぶん亡くなられたのだと思います。
そんな悲運なお兄さんを見ながら、「自分だったかもしれない」「なんて危険なことをしていたんだ」と僕も含めみんなが思って、震え上がったのでした。
この体験は、自分にとってすごく大きくて、「危険なことは絶対やらない」「ノリにまかせてはいけない」「みんながいるから安心。はない」と言い聞かせています。臆病になってもいい。逃げてもいい。ということを学びました。
子供だったので、この事故のことを新聞などで読んだ記憶はなく、報道されたのかも知らないのですが、もしご存知の方がいらっしゃったら、教えてください。「自転車のお兄さんは奇跡的に助かった」とか、そういうのだったら本当にうれしいです。「ストの時に私も歩きました」とかでも、もちろんいいですよ。
ちなみにストで線路を歩くという行為は、これ以降本格的に禁止になったのか、それから歩いた記憶はありません(もう歩く気にもなれませんが)。そして今でも東横線で多摩川の陸橋を渡るたびに、「昔、ここ歩いたんだよなぁ」と、その時の恐怖と、あの自転車のお兄さんを思い出すのです。
ゆるい昭和時代が招いた、ひとつの悲しいお話でした。