今回も引き続き、70年代が生んだ、最強歌謡モンスター「ピンク・レディー」のお話です。前回までのあらすじは・・・
純朴な少女だった、ミー(現:未唯mie)とケイ(現:増田恵子)が、悪い大人(悪友?)に騙されて、ピンク・レディーとかいうセクシー女性デュオにさせられて、変な歌を歌わさせ、踊らされてしまう! いったい彼女たちの運命は⁉
ってかんじでしたっけ? 違いますね。ピンク・レディーになってミリオンヒットを連発して、第6弾シングル「UFO」(1977年12月5日)で人気が頂点に達し、出荷枚数は195万枚! オリコンチャートでは10週連続1位を獲得! 第20回日本レコード大賞も受賞! たった2年で歌謡界のてっぺんに上り詰めたところまででしたね。
ピンク・レディーは、7弾シングル「サウスポー」(1978年3月25日) 、第8弾シングル「モンスター」(1978年6月25日)、第9弾シングル「透明人間」(1978年9月9日)、第10弾シングル「カメレオン・アーミー」(1978年12月5日)もメガヒット! まさに快挙。社会現象と呼べるブームを巻き起こします。子供もみんな歌い踊ってました。おもちゃも筆箱も水筒も自転車も、ピンク・レディーグッズだらけなのでした。
しかし、第11弾シングル「ジパング」(1979年3月9日)で、ついにデビュー曲以来続いた出荷枚数の連続100万枚突破記録が途絶えます。同時に「S・O・S」以来続いていたオリコン連続1位記録も途絶えます。しかしこの頃、オリコン史上初となる快挙、総シングルレコードの売上合計枚数1000万枚を突破! 歌謡界に不滅の記録を残したのであります。
第12弾シングル「ピンク・タイフーン (In The Navy)」(1979年5月1日)は、初のカヴァーシングル。ヴィレッジ・ピープルのヒットソング「イン・ザ・ネイビー」の日本語バージョンでした。この岡田冨美子の日本語詞が強烈で、
♪やっちゃいな やっちゃな やりたくなったらやっちゃいな
なのであります。大丈夫かこれ(笑)。
第13弾シングル「波乗りパイレーツ」(1979年7月5日)で阿久悠、都倉俊一コンビに戻ったピンク・レディーですが、ここでも1位返り咲きはならず。ちなみにB面の「波乗りパイレーツU.S.A.吹込盤」のバックコーラスは・・・
ザ・ビーチ・ボーイズです!
すげえ! 「サーフィン・U.S.A.」のあのビーチ・ボーイズですよ! なぜビーチ・ボーイズとの共演を前面に押し出さなかったのかは謎ですね。大人の事情だったのでしょうか。
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日本での人気に陰りが見え始めたピンク・レディーは、第14弾シングル「Kiss In The Dark」(1979年9月5日)で、なんと全米進出します! 当時としてはあり得ないチャレンジですが、この曲は、全米ビルボード37位にランクイン! 1963年の坂本九の「Sukiyaki」(「上を向いて歩こう」)以来の日本人のランクインになりました。
「Sukiyaki」は奇跡の1位ですけど、日本人がシングルチャートでトップ40に入るだけでも快挙なのです! 「全米ビルボード シングルトップ40」の壁というのがあって、トップ40に入るとヒット曲という概念がアメリカにはあります。このトップ40に入った日本人は、ピンク・レディー以降は一人もいません。
海外進出したYMO、松田聖子、矢沢永吉、ドリカム、宇多田ヒカル、久保田利伸、X-JAPAN、布袋寅泰、LOUDNESS、NOKKO、ONE OK ROCK、MIYAVI、Perfumeも、そしてなんとあのピコ太郎でさえも、残念ながら「シングルトップ40入り」できていないのです。ピコ太郎でダメならもうダメだ! ってなりますよね。ならねぇよ!
そう、ピンク・レディーの海外進出は成功したのでした!
全米三大ネットワークの一つ、NBCでゴールデンタイムに冠番組を持つほどの人気者になったのです。
アメリカで活躍しながら、日本でもシングルは発売されます。第15弾シングル「マンデー・モナリザ・クラブ」(1979年9月9日)。14位に終わったこの曲を最後に、作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一コンビから離れます。第16弾シングル「DO YOUR BEST」(1979年12月5日)36位。第17弾シングル「愛・GIRI GIRI」(1980年3月5日)58位。第18弾シングル「世界英雄史」(1980年5月21日)45位。
この頃日本では、ピンク・レディーに逆風が吹きます。当時前代未聞の紅白歌合戦出場辞退によるバッシングなどが原因ですね。また、全米で活動しているので、日本のテレビに出なかった影響もあり、シングルはヒットしませんでした。
日本での人気低迷にテコ入れをしたかったのか、ピンク・レディーはアメリカでの契約を更新ぜずに帰国。しかし、すでにピンク・レディーは飽きられていたのと、松田聖子の登場、ニューミュージックの台頭などもあり、人気は回復しませんでした。一気にスターダムに駆け上がりすぎて、落ちていくのも速かったのです。
1980年 9月1日、ついにピンク・レディーは、7ヵ月後の解散を宣言します。最後に大ヒットの花火を打ち上げたかったところですが、世間の風は冷たく、第19弾シングル「うたかた」(1980年9月21日)48位。第20弾シングル「リメンバー (フェーム)」(1980年12月5日)86位。第21弾シングル「Last Pretender」(1981年1月21日)85位。そして、育ての親、阿久悠・都倉俊一コンビが復活しての第22弾シングル「OH!」(1981年3月5日)がラストシングルになりました。この曲の順位も46位に終わりました。
1981年3月31日、後楽園球場での解散コンサートで、ピンク・レディーは解散。一世を風靡し、歌謡界を塗り替えた二人なのに、空席が目立つ雨の中、悲しい最後のコンサートになったのであります。1978年4月、同じ後楽園球場を超満員にし、惜しまれつつ伝説の解散コンサートを行った、ライバルのキャンディーズと比べられ、有終の美とは言えないラストでありました。
18歳でピンク・レディーになったミーとケイ。わずか4年7ヶ月の活動期間で、日本歌謡界の天下を取り、全米でも人気者になり、最後は少し寂しい終わり方でしたけど、超巨大な旋風のような二人組でした。解散時のミーとケイはまだ22歳。常人には考えられない凄まじく濃い4年7ヶ月ですよね。睡眠時間1~2時間のハードスケジュールをこなしていたわけですし。頭が下がります。
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解散してしまったピンク・レディーですが、その後も、仲のいい二人は、度々再結成を繰り返し、ファンを楽しませてくれています。二人とも体形もダンスのキレも、まったく変わらないのが素晴らしいですね。ミーもケイも、プロ中のプロなんですよね。
そんな70年代歌謡界のモンスター、「ピンク・レディー」のミーこと未唯mieさんが、近年いろいろ話題になっています。ソフトキャンディー 『ぷっちょ』(UHA味覚糖)のCMでは、アイドルユニット「AKB48」と共演。「謎のメンバー」として63歳とは思えないキレキレのダンスを披露しましたね。
さらに未唯mieさんは、「花王 リリーフ」と「RIZAP」のコラボプロジェクト「リリーフ×RIZAP コラボプロジェクト」の応援アンバサダーにも就任。昔と変わらない美ボディーで、美魔女っぷりを披露しています。
そういえば、70年代「ピンク・レディーブーム」の時、
ミーとケイどっちが好きでしたか?
ミーの話をした後なのに恐縮ですが、ちなみにワタクシはケイ派でした。
ショートカットな健康美のミーに対して、長髪ちょい巻き毛・細身のケイの方に女を感じてドキドキしていたのだと思われます(笑)。ミー派の方が多かったので、反体制の血が騒いだのもあるかもしれませんが(笑)。
そんなケイこと増田恵子さんの話題も欲しいですね、ケイ派としましては(笑)。今調べたら、ディナーショーをやるらしいですよ! 7月17日(土)にホテルプラザオーサカで。新幹線に乗って行こうかな。
60過ぎてもほんとに変わってないから奇跡だよなぁ、プロなんだよなぁ~この二人! ピンク・レディーの再結成もまた見たいですね! 2026年がデビュー50周年だからやるのかな? あと5年。いけるでしょ! プロ中のプロのミーとケイだから!
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