日本ミュージックシーンの巨人・井上陽水について書いていたら、楽しくなってきたので、今回も陽水さんの話です。井上陽水としてデビューする前のアンドレ・カンドレ時代にスポットを当てます。
まず、井上陽水のデビューまでの半生をざっくり振り返りましょう。
井上陽水(本名の読み方は、いのうえあきみ)。福岡で歯科医の息子として生まれ、小学生の頃から歌がうまく、中学3先生の時にビートルズに出会い、虜になる。
九州歯科大学を受験するも不合格。二浪中、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」を深夜放送で聴く。テープを高速回転させたコミックソングがヒットしているのを知った陽水は、「こういうのなら自分でもできる! 一発当てたい!」と、曲作りをはじめ、歯科大受験はまた落ちたが三浪はせずに、歌手を目指して上京。
ラジオ番組の視聴者コーナーに投稿したのをきっかけに、シングル「カンドレ・マンドレ」で69年9月にデビュー。アーティスト名はアンドレ・カンドレ。ややこしいわ! これ井上陽水に詳しくない人が聞いたら嘘だと思われそうな話だなぁw
で、アンドレ・カンドレさんは、2ndシングル「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」も発売するが不発。歌はうまいのに、楽曲が悪いのかも? と思われ、3rdシングルは松山猛と加藤和彦が楽曲提供し、70年10月に「花にさえ、鳥にさえ」を発売。でもこれも売れなかった。
その後、変な芸名をやめて井上陽水として再デビューして大成功するのである。
曲もメチャクチャですが、ジャケットもメチャクチャですw アンドレさんなんでふたりいるの? 横分けの陽水と五木ひろしのデュエットかと思ったわw
これも1969年12月のリリースなので、厳密には70年代ではないのですが、まぁご勘弁。ジャケット写真は実に楽しそうに笑っているアンドレさんですが、これも不発でした。曲自体も陽水にしては可愛い発想というか、深みがないというか・・・。でも、ここから忌野清志郎などいろいろなアーティストと交流し刺激を受け、ボブ・ディランも知ったことが、その後の作詞に影響を与えたのかなと思われます。
ついに歌だけ歌うことになってしまったアンドレさんの、サードシングル。作詞・松山 猛 作曲・加藤 和彦 の大物コンビであります。が! なんかムード演歌っぽいというか、ムードフォークというか・・・。残念ながらこれも売れませんでした。B面もすごいよね。「さぁおぬぎ」ってw しかし迷走中のアンドレさんのジャケット写真の無表情がいいですよね。何を考えていたのでしょうか?
その後、アンドレ・カンドレは、一年以上のブランクを経て、井上陽水として再デビューを果たし、大成功するわけです。本名の「あきみ」を、なぜ「ようすい」と読ませたのかと言えば、フォークのプリンスと呼ばれていた“よしだたくろう”(当時ひらがな表記)の「たくろう」に対抗して4文字にさせられたらしいです。てことは、ひょっとしたら “いのうえようすい” にさせられていた可能性もありますね。ないか。
と言うわけで、3回に渡って井上陽水さんを取り上げたわけですが、ワタクシ決して陽水さんをバカにしたりディスってるわけではございません。アンドレ・カンドレ時代のレコードも持っているくらいファンなのです。今の陽水さんも好きですし、本当の天才だと思っています。ただ、曲もそういうのあるけど、あの人本当に変わっていて面白いなぁと思ってしまうのです。たまーにテレビに出て、タモリさんと会話してるのも永遠に見ていたくなるくらい面白いです。それと同じくらいアンドレ・カンドレ時代のジャケット写真を見ているとニヤけてしまうのですw
陽水生誕 アンドレ・カンドレから陽水へ [12" Analog LP Record]
アンドレ・カンドレ時代の曲は、このレコードでしか聞けません。レコードですのでご注意を!