70年代研究所

70年代~80年代!あの時代にタイムスリップ!

1976年、歌謡界に巨大モンスター出現!

私の記憶が正しければ、

時は1976年(昭和51年)。夕方、中学から帰宅した僕は、テレビで『銀座NOW』を見ていました。するとタンクトップに短パン姿の、見るからに垢ぬけない二人組女子が登場。

「本日デビューしました、ピンク・レディーです」と自己紹介したのです。当時“ピンク”と言えば“ピンク映画”に代表されるエロい隠語。つまりこの子たちは“エロ女”という名前でデビューさせられたのか⁉ 「ピンク・レディーって(笑)。さすがにその名前はないだろう。可哀そうに・・・」と男子中学生は思いました。

 

そしてその「ピンク・レディー=エロ女」と名付けられた二人組は「ペッパー警部」という妙な歌を激しく踊りながら歌いました。今でも覚えているくらいですから、「変なのが出てきたなぁ」と印象深かったのですね。1976年といえば、キャンディーズ「春一番」を歌っていた頃なので、その可愛さに比べてコイツら(失礼)は、

♪ペッパー警部 邪魔をしないで ペッパー警部 私たちこれからいいところ 

とかワケワカンネエ(笑)。ペッパー警部って誰だよ⁉ と、完全に色物扱いで見ていたのです。この男子中学生に罪はありません。ほとんどの人は、ピンク・レディーを最初はそんな目で見ていたと思います。しかし、さっきも言いましたが、印象には強烈に残りました。

 


ペッパー警部[ピンク・レディー][EP盤]

 
他の人にも印象深かったのでしょう、ミー(現:未唯mie)とケイ(現:増田恵子)の女性デュオ、ピンク・レディー「ペッパー警部」は、あれよあれよという間に大ヒット。第2弾シングルの「S・O・S」(1976年11月)と、第3弾シングルの「カルメン'77」(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒット。ピンク・レディーはロケットのような速さでスターダムに駆け上がります。

 

「渚のシンドバッド」(1977年6月)では、ピンク・レディー初のミリオンセラーに。サザンオールスターズはこの曲と、沢田研二が歌った同年の大ヒット曲「勝手にしやがれ」をミックスさせて、「勝手にシンドバッド」というタイトルをつけた曲でデビューしたほどです。

 


渚のシンドバッド

 

第5弾シングル「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月5日)も大ヒットし、第6弾シングル「UFO」(1977年12月5日)でピンク・レディーの人気は頂点に達します。出荷枚数195万枚。オリコンチャートで10週連続1位を獲得第20回日本レコード大賞受賞。デビューからたった2年で、歌謡界のチャンピオンになりました。

 


UFO

 


ピンク・レディー ベスト 12CD-1148B

 

ピンク・レディーの仕掛け人は、作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一の名コンビ。意味はなくても印象に残るフレーズと、アップテンポなメロディの「アクション歌謡」であります。その元祖は山本リンダ「こまっちゃうナ」など、甘い歌声で人気のあった彼女ですが、後に低迷。その窮地を救ったのが、作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一コンビの「アクション歌謡」でした。


山本リンダ ベスト KB-37

 山本リンダをセクシーで激しい路線にイメチェンさせ、1972年「どうにもとまらない」を発表。これが大ヒットして、1973年には「狙いうち」も大ヒット。その歌い出しが、

♪ウララ ウララ ウラウラで ウララ ウララ ウラウラよ ウララ ウララ ウラウラの この世は私のためにある

ですよ(笑)。歌謡界の歴史始まって以来の、意味不明でキャッチーな歌詞であります。リンダはこの後も、「狂わせたいの」「じんじんさせて」「燃えつきそう」「きりきり舞い」と、セクシーなアクション歌謡でヒットを連発しました。この路線をデュオにして、見事成功させたのが、ピンク・レディーだったわけです。

 

元々、高校の同級生だったミーとケイ。テレビ番組『スター誕生!』に出演した時は、お揃いのサロペットを着てフォークソングを歌う、清純・素朴な少女でした。まさか自分たちがピンク・レディーとして、セクシーアクション歌謡路線でデビューするとは夢にも思っていなかったはずです。

 


ピンク・レディーの活動大写真 [DVD]

1978年、初主演映画。原案・脚本はジェームス三木!

 

さて、天下を取ったピンク・レディーは、なんと海を飛び越えて海外進出にチャレンジ! 全米デビューの結果は? また現在のミーとケイは? など、話が長くなりましたので、続きは次回に持ち越します。また読んでくださいね。

 

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